哲学② 利己主義は正しい?の結論

こんにちは!
普段から夜更かし人間なんですが、最近は0時くらいには眠くなってきていて、健康的になってきた?と嬉しく思っています(笑)

 

さて、前回の教養ゼミでは「利己主義についてどう思うか。」について議論をしていきました。全体的に「利己主義は正しいのでは…?シンパシーを感じる」という意見が多かったですね。

今回のゼミでは、その問い=「利己主義は正しいのか?」「正しいとしたらどうなるのか?」をさらに深く考えて、議論をしていきました。

 

=グループでの議論=

「利己主義を認めてしまうとどうなるのか?」について、グループでは利己主義を認めると殺伐とした世界になる。行動の初動は利己主義が始まりではないといった意見が出ました。

行動の初動は利己主義が始まりではないというのは、誰かを助けようとなったときには、もう体が動いている。体が動いている=利己主義ではない。ということです。

また、利己主義を認めると暮らせなくなるという意見も出ました。例えば、家族がいつでもご飯を作ってくれるということについて。利己主義だったら、作りたくないときに作らないという選択もできます。でも家族は疲れていても家族のためにご飯を作ってくれます。だから、利己主義を認めるのは違うのではないか、と。

これらのことを踏まえて、「利己主義は正しいか」「認めるとどうなるのか」と考えたときに、利己主義を認めると、人間のつながりが薄くなる=人間関係が成立しない→人間関係が成立しないと文明が発展しないのではないか。と話が少しずつまとまっていきました。

さらに、人間関係に関連して、老人と青年の会話は相手が聞いてくれていることで成立している。だから、そもそも老人が利己主義を成立していないよね。という意見もありました。

これは具体的にわからなかったので、自分なりに相手の意見を解釈して伝えてみました。どういうことかというと、会話は話に興味があったり、相手の話を聞こうとする気持ち(相手のことを考えている気持ち)があるから成立しているもの。だから、青年と会話をしている老人は話を聞こうとする気持ちがあるってこと。つまり、老人も利己主義ではない面がある。よって、利己主義を認めてしまったらそもそも会話が成立しないのでは?ということです。

 

以上の話し合いをまとめて、私たちの結論は、全面的に利己主義を認めてしまうと、文明が発展しない。(殺伐になるという面から)人の楽しみを享受できないとなりました。

 

=哲学対話を行って=

このように、文章ではつらつらと書いているけれど、実際には話をうまく理解できなかったり、どういうこと?となる部分がありました。また、伝えたい感情や思いがあるけれど、それを伝えられない。言葉にできない。どうやって表現したらいいのかわからない。自分でもその感情がどんな感情かを言葉に表せられない。といったモヤモヤ感もありました。今回の哲学対話で、言葉にできないモノを表すことは難しいということをすごく実感しました。

 

さらに、今回自分なりに良かったなと感じた点は、自分の中で整理をするために、これはこういうこと?と聞き返しながら議論を進めていたことです。行動の初動も老人の会話成立も、相手に聞き返すことで自分の理解を深めていっていたと思います。これが哲学対話にとっていいのかはわからなかったけれど、自分の言葉に変えて聞き返すことで相手の意見を整理することができました。
(やっぱり自分の言葉が一番理解しやすいのだなと思います。だから、相手の言葉をどれだけ自分の言葉に書き換えられるかで自分の理解度が変わるなと思いました。)

 

また、須長先生が当てはまる言葉がないときに安易に言葉を当てはめないとおっしゃっていたのですが、「楽しみを享受できない」という言葉を安易に当てはめてしまったかもなと思いました。この言葉を聞いた後に、もっといい言葉があったかも。楽しみを享受できないって具体的にどういうこと?と深堀できたかもしれないと思いました。

 

 

今回の哲学対話は、いままで何かを違った視点で考えるという機会がなかったので、新鮮な気持ちで楽しかったです。自分の理解の深め方もわかったので、いい発見だったなと思います。

 

おわり